痛みと悲しみの極み
人はあらゆる計画を企てるけれど、
神さまは、御心のままに、ことを運ばれる。
ダビデ王の王位継承物語、
ついに父ダビデとと子アブサロムの戦いが始まろうとしていた。
ダビデと軍はヨルダン川をわたり、
川向こうのマハナイムという町で、戦の準備を整えた。
ダビデ王も出陣を望んだが、部下は拒否。
王は町に残ることになったが、
(将軍たちである)ヨアブ、アビシャイ、イタイに命じた。
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「私に免じて、若者アブサロムを手荒には扱わないでくれ」(Ⅱサムエル18:5)
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戦いはエフライムの森の中で起こった。ダビデ軍は戦いのプロである。アブサロム軍は大敗北し、兵士20000人を失った。
アブサロムは、森の中で、ダビデの家臣たちに出くわした。その時、乗っていたらばが絡まりあった枝の下を進んだので、
アブロサムは大木にからまって宙づりになり、らばは逃げ去ってしまった。
ヨアブは、ダビデの命令を無視して木の上のアブサロムを殺害、ヨアブは使いのクシュ人2人に、ダビデに事実を伝えるように言った。ダビデは、2つの城門の間に座って吉報を待っていたが、戻ってきた使者2人からは、アブサロムの死が伝えられた。
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「わが子アブサロムよ、わが子よ、わが子アブサロムよ。
私がお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わが子よ、わが子よ。」(Ⅱサムエル19:1)
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ダビデは、城門の上の部屋で身を震わせて、息子の名を呼び続けた。父親ダビデの悲しみが伝わってくる。
ダビデの悲しみは側近ヨアブにも知れた。悲しんでいるダビデに対して、ヨアブは、ダビデに迫る。
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「今、身を起こし、外に出て、家臣たちに優しく語りかけてください。主に誓って申し上げますが、もしあなたがお出になられなければ、今夜あなたと共に夜を過ごす者は一人もいなくなるでしょう。・・・」(Ⅱサムエル19:8)
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そこで王は立ち上がり、城門の席に着いた。兵士は皆、王の前に集まった。
ダビデは、もう一度、王に返り咲いたのである。
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ひとりひとりが、神さまにあって、オリジナルの道を歩んでいる。
わたしたちも、その道の半ばで、大きい小さいに関わらず、痛みや苦しみを経験する。
誰にも分かってもらえない痛みに出会った時、
わたしたちは、どのように、痛みに向き合っていけばいいのだろうか。
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主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ…(詩篇38:16)
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苦しみの中にあっても、ダビデは、主への信頼を忘れていませんでした。
待つことを大切にしたい。
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では、わたしたちは、なぜ、
イエスさまに希望を持って歩むことができるのでしょうか。
イエスさまとは、わたしたちにとって、
どのような方なのでしょうか。
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御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです(ヘブル2:18)
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イエスさまは、神の子として、
赤ん坊の姿で、貧しい馬小屋の中でお生まれになりました。
そして、この世で生きる中で、
とてつもない苦しみを味わわれました。
人々に憎まれ、嘲られ、十字架の苦しみを受けられました。
その苦しみや痛みは、想像できないほどです。
わたしたちにも、
「この苦しみは、話しても、誰にも分ってもらえないから、
話さない、話したくない、そもそも話す機会もない」ことが、
あるかもしれません。
当の自分も忘れているような痛みがあるかもしれません。
でも、人が分かってくれなくても、
わたし自身が、話すのをやめていたとしても、
イエスさまは、そんなわたしの心の中を、
分かってくださる方なのです。
誰よりも、痛み、苦しまれた方は、
わたしの苦しみを、
わたし以上に知っておられる方です。
神さまから助けをいただき、神さまからの慰めをうけると、
神さまへの感謝があふれてきます。
そして、その恵みを
他の人とも味わいたいと思えるようになります。
くじけそうになっていた人を、
他の人を励ます、慰める人に
つくりかえてくださいます。
試練の意味は、
すぐには分からないかもしれませんが、
神さまの恵みが分かった時、
そこからまた、生きる力が沸き起こっていきます。
信じているのに、
道半ばで「もはやこれまで」と思うようなことがあります。
しかし、神さまは、そんな中でも、
御心のままに、ことを運ばれる方です。
誰も経験したことのない、
試練の中にあったとしても、
主イエスは、それ以上の、いばらの道を歩まれました。
試練は、神の恵みが、より、分かるために、
この身に起こったのだ、と思うと、
試練さえも、感謝な出来事のひとつなのでしょう。
暗闇が暗いほど、光を強く感じるように、
神さまの御業を、より、わかるように、
忘れられないほどの恵みにしてくださる機会だったのかもしれません。
わたしたちの必要をすべてご存知の主に、
すべてのことを、そなえてくださる主に、
感謝して、歩んで行きましょう。
(おまけ)
大河ドラマの『光る君へ』を観ている。
だいぶ前の放送で、帝(一条天皇)の妻であった彰子が、
「わたしも帝に傷を探られるのであろうか」と言ったことがある。
彰子は、帝との信頼関係が上手くいかないのでは、と、悩んでいた。
そんな彰子に、紫式部は、
「傷とは、大切な宝なのでございますよ。傷こそ、人をその人たらしめるものにございますれば」
と答えたことがある。
傷を探られることを恐れずに、お互いを大切に思って、
よい関係を築いていってくださいね、という、
紫式部からの励ましの言葉のように思えた。
祈りながら、
お互いに、大切に思う気持ちを
育んでいきたいな。