あなたもそこに

高校時代、日本史の授業が楽しみでした。

日本史の先生は、よく、授業中にタイムスリップをしたのです。

「私は、聖徳太子に出会って、聴いて来ました・・」

「そして、聖徳太子の気持ちになったつもりで、考えました・・」

と、先生は、歴史上の人物に会いに行って、ご本人と対話する形式で、授業を進めていました。私は、授業の内容よりも、「タイムスリップをするかしないか」というところに気を取られましたが、先生の、日本史が大好きだったという気持ちが、とても伝わってきた授業でした。そして不思議なことに、生徒たちも、先生と一緒に奈良時代にタイムスリップして、聖徳太子の話を聴いている感じにもなりました。「イメージする」ということの大切さを、なぜか日本史のタイムスリップ論法で教わりました。

何十年か経って、教会に行って、聖書を読むようになりました。
たまに、あのタイムスリップの日本史の授業を、思い出します。

イエスさまが弟子たちを連れて歩まれた、その行いや、み言葉を、もっと知りたいと思う。わたしたちは、まるでタイムスリップしたかのように、イエスさまをたずねます。そして、わたしも「そこにいること」を、発見するのです。

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今週は、イエス・キリストが私たちの罪のために身代わりとなって受けられた苦難と十字架の贖(あがな)いをおぼえる「受難週」です。

マタイの27章で、ローマ総督ピラトが、民衆にイエスさまのことを、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と言った時、民衆は「その血の責任は、我々と子孫にある」と言った。そして、イエスさまは、十字架にかけられた。

イエスさまの十字架に立ち会っていた人々。

そこにいた人々と、自分自身を、重ね合わせる時に、

イエスさまの存在を、身近に感じる。思い出される。

わたしもそこにいた。

あるときは無責任で高慢な民衆のひとりであった。

あるときは責任を放棄した総督ピラトであった。

あるときはイエスに肩代わりされて十字架刑を免れた、囚人のバラバであった。

気づきが与えられて、

「わたしもそこにいた」

と思った時、

わたしは、何も知らずに、

神さまに、

多くを赦されていたことを知った。

「そこ」とは、

ひとりひとりが、今、

置かれている状況、である。

気づきが与えられたとき、聖霊さまも、そこにおられる。

希望が与えられている。

神さまは、わたしたちが、

新しいいのちに、生かされることを、

望んでおられる。

神さまは、わたしを救うために、

み子イエスを捧げてくださった。

この大きな愛と赦しを

感謝して受け取って、

歩んでいきたいです。

【今週のみ言葉】
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「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」(ガラテヤ3:1)
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