イエスがおっしゃる幸い

3月になりました。春の気配があちらこちらでしています。

イエスさまの、山上の説教は、異邦人が多く住むガリラヤ地方で、人々と弟子たちに語られた。心身共に苦しみを抱えていたガリラヤの人々は、神さまを求めていた。イエスさまは、苦しまれている人々の中で、みことばを語られた。イエスさまのことばによって、多くの人々が慰められ、癒された。

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心の貧しい人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである。
その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸いである。
その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人々は、幸いである。
その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである。
その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである。
その人たちは神を見る。

平和を実現する人々は、幸いである。
その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。

(マタイ5:3~10)

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この8つの幸いのなかで、
心に響くみ言葉を思った。
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心の貧しい人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3)
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自分の力ではどうすることもできないことを認識できたことは、
幸いのはじまりでした。
前にも後ろにも行けなかった試練の時、
主は、戸口に立って、声をあげて、戸をたたいておられた。
自分の心の貧しさ、弱さに向き合うこと、
これが、神さまを求めることの始まりでした。

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平和を実現する人々は、幸いである。
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)
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イエスさまは、わたしたちはすべて等しい存在なのだと、すべての人は神の子なんだ、と、知らせてくださいました。
神さまの愛があらわれているところに、平和があらわれ、実現しているのだと思いました。

ある日、疲れがたまって、気持ちが沈んでしまうことが続いた時、

「『出来なくなったことを意識からなくすこと』は難しいけれど、『まだ、これなら出来ることに意識を向けること』はできると思うんだ。」と、声をかけてくださった。目が覚めた。

弱さの中にあるときに、わたしたちは、他の人々からの励ましや慰めを受ける。試練の中に、神さまの計らいを感じるのは、このような場面に出会うときだ。何気ない対話、出会いの中にも、イエスさまが共におられる。試練の中にも一筋の光が射すとき、神さまに感謝せずにはおられない。

苦しい状況でこそ、味わうことができる幸いが、ある。

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「義のために迫害される人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:10)
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8つ目の幸いを伝えたあと、イエスさまはこのようにおっしゃった。
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わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある・・(マタイ5:11,12)
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義のために辛い目にあっても、大いに喜んでいい、と、イエスさまは言われる。そして、何よりも、イエスさま御自身が、わたしたちの罪のために、尊い犠牲を払ってくださった。御自身には、身に覚えのないのに、代わりとなって、十字架の道を通ってくださった。わたしたちには、主が共におられる。これを心に留めて、今週も、感謝をもって、歩んでいきたいです。