憐れみ深い人々の幸い

昨年の秋に植え付けた水仙が咲いた。

寒い冬の間、水仙の球根はじっと待っていた。

寒さが緩んで春が近づいてくると、水仙は、

空に向かって手を挙げるようにして、

葉先を上に伸ばした。

このようにして、毎年、水仙の花を見ている。

冬越えの忍耐が、どのようなものであるのか、

想像がつかないけれど、

そこに、目には見えない神さまの御業がある。

誰かが打ちひしがれている。

良きサマリヤ人のように、

あの人に、憐れみをかけることを、

わたしは、どのようにしてゆけばいいのだろう?

そのたびに、神さまに聴いていく必要がある。

***

一石を投じると、波紋が起こる。

過去のいろいろを思い返すと、

何も投げない時もあれば、

投げる時には、一石どころか、両手にいっぱいの石を、

考えなしに投げていた時もある。

ただただ周囲は混乱したのでは?と思う。

「どれがどの波紋かもわからないよなあ・・」

けっこうつらい思い出だ。

そのような恥ずかしい過去が思い出されたあと、

イエスさまによって、

多くのことが赦されていた、という実感だけが残った。

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憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。(マタイ5:7)
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この、「山上の説教」の一節は、
「憐れみ深い者となれば、あなたがたは、神の憐れみを受けることができ、幸いになることができる」ということではない。
私たちはキリストによって、既に、神の憐れみを受けているがゆえに、憐れみ深い者となることができ、そのために努力することができる、ということを、説いておられる。

わたしたちは、自分が、神さまから、

「とても多くの憐れみ」を受けていることに気づいて、

はじめて、

自分以外のひとが心傷んでいるときに、

心同じくすることができる。

憐れみ深い人の幸いは、

自分は、神に赦され、

神の憐れみを受けている、

ことを知ることから始まるのだ、と思う。

『情けは人のためならず』という、日本のことわざは、

イエスの憐みとなるだろうか?興味深いテーマだった。考えてみる。

人(A)には、きっと、「{情け}」というものがある。

神さま(U)のことを知らない時でも、「{情け}」は存在している。

そして、人(A)は、、神さま(U)のことを知った時、

イエスさま(U)が人(A)の友となってくださった時、

人(A)は、神さま(U)の「{憐み}」の中にとどまっていることを知る。

図だと2つになるのかな、、

もっといい表現があれば教えてください。

人(A)の「{情け}」は変化するし、不安定だ。

その中で、人(A)が、神(U)と共にあるとき、

人(A)は{愛と、赦しと、憐み}で、

心に平和を取り戻す。

神さま(U)、どうか、

人(A)が、あなた(U)から受けた{愛、憐み、赦し}を、

少しでも、今、必要な方に、

差し上げることが出来ますように。