生きておられる方
教会に面する道路を渡ると、そこには一面の琵琶湖が広がっています。
春の日差しが心地よくて、礼拝の前に、浜に出て、波打ち際を歩きました。
波で打ち上げられた枯草が、あちらこちらに積まれている。
水の中をのぞくと、砂の中から、水草が生えて揺れていた。
自然の中に生き物の生と死を目の当たりにすると、
そこには必ず、人間の営みにも似た光景が広がっている。
そのまま歩いていると、水の中から生えている植物があった。水草ではなさそうだ。
波打ち際、水草にとっては生と死の境である場所にたたずむ、名も知らぬ草。
その姿に、復活されたイエスさまの姿を見たような気がした。
イエスさまは、十字架に架かられ、墓に葬られた。
3日後、イエスさまの墓に、2人の女性が訪れたのだが、そこにイエスさまの亡骸はなかった。途方に暮れていた女性たちに、2人の神の御使いが現れて、このように言った。
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「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24:5,6)
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神さまは、弱さを持つ私たちが、途方に暮れている時にも、
必ず、希望の道を切り開いてくださっている。
それは、耳を澄ますと聴こえたり、
誰かとの出会いであったりする。
今も生きておられる主の導きは、さまざまな形で現れていると思う。
希望は、実は、うんと近くにある。
私たちは、その希望を抱きながら、
言葉にできない、自分の思いをはるかに超えた、
心の旅をしているのだ。
今も生きておられる主は、私たちの内にいて、
今も、私たちのために、道を備えてくださっている。
一緒に、旅をしてくださっているのだ。
わたしのもつ弱さの中に、主が今も生きて働いておられることが、
今ここにあるなんて、どんなに喜ばしいことだろう。
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ドラマの中で、主人公の女性と、その叔母さんが会話していた。
自分の人生に折り合いをつけすぎて、どうしていいのか分からなくなっていた主人公に、叔母さんは言った。
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「遅すぎることなんて、ないよ。わたしなんて、まだまだ、やりたいこと、たくさんあるもん」
「-成功の反対は、失敗じゃなくて、行動しなかったこと、でしょ?」
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イエス・キリストは、私たちの存在をとても喜んでおられる。
私たちを愛してくださっている。
その、御自分のいのちを、十字架にかけられてまでも、
私たちのことを、よろこんでくださった方である。
恐れなくてもよい、と、日々、わたしたちを、励ましてくださっている。
少しでも、より良い方に行くために、
動いていきたいな、と思った。
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御使いからイエスさまの復活を聴いた婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、弟子たちにこのことを知らせるため、急いで墓を立ち去った。
すると、復活のイエスさまが、婦人たちの行く手に立っていた。
イエスさまは、彼女たちに、
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「おはよう」(マタイ28:9、新共同訳)
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と、言われた。
イエスさまが死んで、
3日目の朝に、生き返ったご本人が、
ほんまに「おはよう」って言ってたら、
わたしは、正直、びっくりするだろう。
少し、調べてみた。
「おはよう」は、
「平安あれ(口語訳)」と訳されていたりもする。
いろいろ見て、英語の、
これが好きだな、と思った。
”-Rejoice!”
喜びを抱け。
主の復活を、大いに、喜ぼう!