すべての人の仕える者に

当時のユダヤの人々の苦しみには、貧困と病気があった。
医者に行けず苦しんでいる人々が大勢いたのだ。

イエスさまは、どんな重い病気も、癒すことが出来た。
弟子たちもまた、悪い霊の追い出しや、病を癒す働きを授かっていたが(マルコ6:6~13参照)、癒せる確率は、100%ではなかった。

マルコ9章28~29節、子どもに取りついた悪い霊を追い出せなかった弟子たちは、後からイエスさまにこっそり尋ねる。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか?」これに対してイエスは言われた、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」と。

祈りには、癒す力が、ある。それを信じて祈っていきたい。

その後、イエスさまは、ふたたび、弟子たちに、自分の死と復活を予告される。

***********************
「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられた…。(マルコ9:31)
***********************

弟子たちは、この言葉の意味がわからず、怖くて、何も尋ねることが出来なかった。
この時の、弟子たちの心持ちは?といえば、まったく自分の事しか考えていない。
みんなで、イエスさまのいないところで、誰が一番偉いのかという議論をしていたのだ。
イエスさまが殺されるという考えなど、想像になかった。

そんな弟子たちを、イエスさまは、呼び寄せて言われた。

***********************
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に遣える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ9:35~37)
***********************

当時のユダヤ社会では、子供は小さくて役に立たないからと、ないがしろにされていた。このイエスさまの教えは、一番になりたいと思ってばかりの弟子たちには、とてもハードルの高いことだった。

***

小学校の運動会を見に行きました。

わたしの子の学年は「ソーラン節」を踊ることになっていた。

太鼓が並べられ、

ひとりの先生の掛け声で、演技が始まった。

グラウンドの空気が変わった。

先生が、大声を張り上げて、

アカペラ(伴奏なしという意味)で「ソーラン節」を歌い始めたのだ。

マイクは無い。

他の6人の先生たちは、

歌に合わせて、思い切り太鼓を叩き続けた。

そして、子どもたちは、

先生の熱い歌と太鼓のリズムに合わせて、

思い切り、自分の体を動かして踊った。

グラウンド中に響き渡る、歌と太鼓が、

子どもたちの踊りを、一層大きくしていた。

ソーラン節の踊りは、3番まで続き、

先生たちが、大きな声で思い切り歌い、

太鼓を叩き切った。

先生たちは、全員、

滝のような汗をかいていた。

子どもたちのために、愛をもって、

一所懸命に準備をされていたことが、

とっても、よく、分かった。

言葉がなくても、確実に、

あたたかいものが、伝わった。

横を向いたら、

主人は(感動で)泣いていた・・・。

***

わたしたちは、

弱い人たちのほうに寄り添う時、

時には、非難されるかもしれない。

言葉が伝わり切らず、誤解を受けるかもしれない。

しかし、イエスさまは、

わたしたちに、そのように生きてほしいと願っておられる。

神の国の風景が広がることを、願っておられる。

イエスさまは、どんな状況でも、

すすんで、寄り添われ、弱い人々を癒された方。

一人一人に愛を注いで、救ってくださる方であった。

イエスさまの教えを思い出して、

今週も、歩んでいきましょう。