すべての人の仕える者に
当時のユダヤの人々の苦しみには、貧困と病気があった。
医者に行けず苦しんでいる人々が大勢いたのだ。
イエスさまは、どんな重い病気も、癒すことが出来た。
弟子たちもまた、悪い霊の追い出しや、病を癒す働きを授かっていたが(マルコ6:6~13参照)、癒せる確率は、100%ではなかった。
マルコ9章28~29節、子どもに取りついた悪い霊を追い出せなかった弟子たちは、後からイエスさまにこっそり尋ねる。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか?」これに対してイエスは言われた、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」と。
祈りには、癒す力が、ある。それを信じて祈っていきたい。
その後、イエスさまは、ふたたび、弟子たちに、自分の死と復活を予告される。
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「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられた…。(マルコ9:31)
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弟子たちは、この言葉の意味がわからず、怖くて、何も尋ねることが出来なかった。
この時の、弟子たちの心持ちは?といえば、まったく自分の事しか考えていない。
みんなで、イエスさまのいないところで、誰が一番偉いのかという議論をしていたのだ。
イエスさまが殺されるという考えなど、想像になかった。
そんな弟子たちを、イエスさまは、呼び寄せて言われた。
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「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に遣える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ9:35~37)
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当時のユダヤ社会では、子供は小さくて役に立たないからと、ないがしろにされていた。このイエスさまの教えは、一番になりたいと思ってばかりの弟子たちには、とてもハードルの高いことだった。
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小学校の運動会を見に行きました。
わたしの子の学年は「ソーラン節」を踊ることになっていた。
太鼓が並べられ、
ひとりの先生の掛け声で、演技が始まった。
グラウンドの空気が変わった。
先生が、大声を張り上げて、
アカペラ(伴奏なしという意味)で「ソーラン節」を歌い始めたのだ。
マイクは無い。
他の6人の先生たちは、
歌に合わせて、思い切り太鼓を叩き続けた。
そして、子どもたちは、
先生の熱い歌と太鼓のリズムに合わせて、
思い切り、自分の体を動かして踊った。
グラウンド中に響き渡る、歌と太鼓が、
子どもたちの踊りを、一層大きくしていた。
ソーラン節の踊りは、3番まで続き、
先生たちが、大きな声で思い切り歌い、
太鼓を叩き切った。
先生たちは、全員、
滝のような汗をかいていた。
子どもたちのために、愛をもって、
一所懸命に準備をされていたことが、
とっても、よく、分かった。
言葉がなくても、確実に、
あたたかいものが、伝わった。
横を向いたら、
主人は(感動で)泣いていた・・・。
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わたしたちは、
弱い人たちのほうに寄り添う時、
時には、非難されるかもしれない。
言葉が伝わり切らず、誤解を受けるかもしれない。
しかし、イエスさまは、
わたしたちに、そのように生きてほしいと願っておられる。
神の国の風景が広がることを、願っておられる。
イエスさまは、どんな状況でも、
すすんで、寄り添われ、弱い人々を癒された方。
一人一人に愛を注いで、救ってくださる方であった。
イエスさまの教えを思い出して、
今週も、歩んでいきましょう。