からし種一粒ほどの信頼

山登りや川下りなど、自然にふれる時間を持つと気持ちがリフレッシュします。滋賀は、湖も山も近くにあって、ぷらっと散歩をするには、とてもいいです。

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マタイ17章から。イエスと弟子たちは、山登りのあと、人々の生活圏へ戻られた。そこで、てんかんが治らない少年の親がイエスに助けを求めてきた。その人は、前に弟子のところに子どもを連れてきたのに、癒されなかったというのだ。(マタイ17:14~16)弟子たちは以前、イエスさまに、あらゆる病気…をいやす権威を授かったはず(マタイ10:1)なのに。

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イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。(マタイ17:17,18)
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この出来事で、弟子たちだけでは何もできなかったことが明らかになった。弟子はひっそりとイエスに尋ねた、「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか。」

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イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ17:20)
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イエスさまは、「からし種一粒ほどの信仰(信頼)があれば山だって動かせる」と言われる。ごま粒ほどの小さな種である。

また、イエスさまは、君たちとずっと一緒にはいられないことを弟子たちに示している。「私(イエス)に信頼をもって、行動していきなさいよ・・」と、伝えている。

― 誰かを信頼する時、信頼に値する、確かなものが必要です。それはどんなことですか?

・・安心できること、かな。「ああ、この人なら、この場所なら、この環境なら、大丈夫だ」という、安心感。わたしが、かっこつけなくても、そのままのわたしを、受け入れてくれる場所(人)だと確信したら、心を開くことが出来ると思う。自分の誠実さも関わってくることだろう。

「信頼しない」から「信頼する」への変化するとしたら、それは、とても大きくて、ポジティブな変化だ。

詩篇23編のひつじを思う。

「主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせて下さる
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる
死の陰の谷を行くときも
私は災いを恐れない
あなたが共にいてくださる」(詩篇23:2-5)

ひつじは、ひとりで、
青草の中でのんびりと休んでるときもある。

他のひつじと出会って、
豊かな気持ちになっているときもある。

また、谷のすれすれを歩くときもある。
ひつじとけんかして泣いているのかな。
それで、はぐれてしまったのかな。

でも、ひつじは、いつだって、
イエスさま(ひつじ飼い)を信頼している。

山をも動かせるこの方に信頼していこう。
小さな信仰だけれども、進んでいきましょう。