ダビデの町
今、住んでいる町は、気に入っているだろうか。
若い頃、町のことが気になっていたかと言えば、そうでもなかった。
でも、この頃、子ども達の遊んでいる様子や、田んぼ、川の水位等々、少し気にかけるようになった。みんなが気持ちよく、安心して過ごせる町がいいな、と思う。
2つの「ダビデの町」について学びました。
旧約の時代。サウル王が亡くなって、ダビデは、イスラエル全部族の王となった。
ダビデと兵は町を築くためにエルサレムに向かった。先住民のエブス人と戦うことになったが、エブス人は、ダビデに「お前はここに入れまい。目の見えない者、足の不自由な者でも、お前を追い払うことは容易だ」と言った。しかし、ダビデはシオンの要害を陥れた。これがダビデの町である。(2サムエル5:6,7)
この時、ダビデは言った、「エブス人を討とうとする者は・・足の不自由な者、目の見えない者を討て。」と。エブス人の言った言葉対して放ったダビデの一言ために・・「目や足の不自由な者は、神殿に入ってはならない」と言われるようになった。ここから1000年以上の時を経ても、この禁令は続いた。権威あるダビデのひと言は、身体の不自由な人々の生活をさらに不自由なものにしたのである。
そして新約の時代。
もうひとつ、「ダビデの町」と言われるところがある。イエスさまが、お生まれになった町、ベツレヘムである。
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ヨセフもダビデの家…の血筋であったので、…ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。(ルカ2:4)
今日、ダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。(ルカ2:11)
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目や足の不自由な者は、神殿に入ってはならない、という、ダビデの禁令を、イエスさまは、行動をもって塗り替えられた。
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(神殿の)境内では、目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。(マタイ21:14)
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イエスさまは、つらさや苦しさを持つ人々のところに気持ちを向けた。イエスさまは、この世の、貧しく弱い人々のために、ご自分の生を尽くされた。
神殿の中にいたとしても、イエスさまは、ただ、神殿に来る人達を待っている方ではなかった。むしろ、神殿に入れない、弱い立場の人々の方へ、進んで行かれた方である。イエスさまの目は、いつだって、悲しみの中にある人に向けられている。
聖書の教えを、伝えたいがために、相手の気持ちを考えずに無理くり話してはいないだろうか。そんな中で、相手が傷ついてしまうことだってある。権威あるリーダーが、「これが正しい」と言い切った時、エルサレムのダビデのようになってしまうことは、十分にありうる。これを、イエスさまは、悔改めよとパリサイ人たちに厳しく説いたのではなかったか。
・・聖書を盾に、正しさを押し付けたりしてないだろうか。クリスチャンであっても、そうでなくても、教会の外、あるいは、教会の中に、涙している人がいるのではないだろうか。
お互いの生活を、分かち合うことに、務めたい。そこに、救い主イエスさまも共におられることを信じる。