私が求めるのは慈しみ

先日、卒業式に出席した。

卒業生が、在校生や先生、保護者に向けて

メッセージを送ってくれた。

「これまで、優しく、見守っててくださり、ありがとうございました」

・・数々の、感謝の言葉に、胸が熱くなった。

卒業する彼らも、そうなのだけど、

たくさんの人たちの慈しみの中で、

わたしたち大人も・・生きていたんだ、と、思わされた。

もちろん、今も。

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イエスさまは、宗教指導者たちに言われた。

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「『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない。』とはどういう意味か知っていたら、あなたがたは罪もない人たちを咎めなかったであろう。」(マタイ12:7)
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宗教指導者たちは、律法や規則を守ることに必死だった。それゆえに、守らない人たちに、厳しくあたっていた。イエスさまは、そんな指導者たちに、慈しみを大切にすることが神さまの御心である、と、言われたのだ。

「慈しみ」とは、「愛、優しさ、思いやり」などの意味がある。

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「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28~30)
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イエスさまは、誰よりも、

慈しみをもって、わたしたちと一緒にいてくださる方。

重荷があって、疲れるときにも、

安らぎを得ることのできる、たったひとりの方。

「わたしに学びなさい」とあるように、

イエスさまの、慈しみの心を、学んでいきたい。

いろんな状況があるけれど、

そんな時、イエスさまの慈しみの心を思い出していこう。