神のものは神に

夜、大河ドラマ『どうする家康』をぼんやりと観ながら、
「どうするイエス・・皇帝の税金はどうする?」と、ひとりごと。
(おやじギャグが止まらない。秘めとけばいいのに!書いてしまう。)

私たちも、生活をしていると、いろいろと、窮地に追い込まれるときがある。
イエスさまは、彼を陥れようとする律法学者たちの企みを、
幾つも、くぐり抜けて来られた。

イエスさまなら、こんな時、どうする?

現在、窮地に立たされている私たちには、
イエスさまの軌跡と、彼のみ言葉を辿りながら、
今を生きるヒントを、神から、たくさん与えられている。

ファリサイ派とヘロデ派の人々は、もともと相容れない人達でしたが、イエスさまの登場により、結託するようになった。あるとき、その人々は、イエスさまの言葉尻を捕らえるべく、罠をしかけた。
************************
「先生、ところで、どうお思いでしょうか、教えて下さい。ローマ皇帝に税金を納めるのは、ユダヤの律法に適っているでしょうか、それとも適っていないでしょうか。」。(マタイ22:17)
************************

イエスさまは悪意に気づかれ、銀貨にローマ皇帝の顔が刻まれていることを人々に認識させてから、言われた。
************************
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:21)
************************

「神のもの」とは何だろう。
神さまは、天地を創り、すべての自然物を創り、人をお創りになった。

************************
神は言われた。
「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。・・(創世記1:26)」
************************
すべてを、良きものとして、創られた。

そのことを、そっくりそのまま受け取るならば、
「神のもの」とは、
神さまご自身の、似姿に造られた、
わたしたち自身のことである。
私たちひとりひとりが、神さまの似姿としてつくられた、
大切な存在なのだ。

傍にいる人が、生かされていくために、
自分ができることをしていけたら、
相手の心も、自分の心も、
うれしい気持ちになると思う。

その時には、自分をわざと大きく見せようとしなくても良いし、
極端に自分の価値を自分で貶めなくても良い。

こんなの見せたら恥ずかしい、なんて、思い上がっている。
どんな下手な事でもやってみたい。
調子の悪いところも、全部みせてみる。
そのままの自分でいながら、
愛をもって仕えていく生き方が
したいなと思う。

***

話は変わって・・
以前、障がいを持つ人達の、お出かけ支援をしている事業所の責任者に会う機会がありました。
彼の名刺のプロフィール欄には「好きな言葉:人間万事塞翁が馬」と書かれていた。
「人生において、何がよくて何が悪いのか、後になってみないとわからない」とか、「安易に一喜一憂しないように」という意味のことわざである。
所長は、自分の子どもとさほど変わらない年だったこともあったのだろうか。
若い人の意思を、この言葉に感じて、
希望を持てたというか、
ちょっと元気になったことがある。

************************
たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。(哀歌3:32、33)
************************

わたしたちは、それぞれに、
「神さまに覚えられている」体験をしているかと思う。

たとえ、しんどいことがあっても、
あとで、この辛さの意味を分からせていただく時が来ると信じて、
神に打ち明けつつ、神の静かな応答を聴きながら、
すべての良きものを、神に捧げつつ、
今を生きていきたい。