深く憐れまれる主

地域がより良くなっていくための「町おこし」は、私が今住んでいるところでも、いろいろな形で行われています。地域ボランティアによる子どもたちのパトロール、町対抗のなわとび大会、小学校と自治会合同の屋台イベント、カレー大会、キャンプファイヤー、畑の野菜の販売会などなど・・・紹介したのはほんの一部で、本当にアイデアが満載で驚いています。

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さて、ユダヤの人々は、神が遣わすメシアによる国の再興を、何千年も待ち望んでいました。
そして、イエスさまの弟子たちも、メシアであるイエスさまによる、国の再興を待ち望んでいた人たちです。
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イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタイ9:35,36)
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羊は本当に近くの物しか見えないほどの近視です。羊飼いが居なければ、すぐに迷ってしまうので逸れたら非常に危ない動物です。
かつて、ダビデが「主は私の羊飼い。わたしは乏しいことがありません。(詩篇23:1)」と詩を残しました。彼は、自分が主に導かれている羊であることを感じていました。
わたしたちも、そのような一匹の羊です。
そして、主は今も、迷える私たちのことを、導いておられます。

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そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ9:37)
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「見失った羊」のたとえ話がある(ルカ15章1~7節)。
100匹の羊のうちの1匹を見失ってしまった。そうしたら、99匹を荒野に残して、残りの1匹を探し歩かないだろうか、と。そして、1匹を見つけたら、その1匹を担いで帰って、近所のみんなを呼び集めて、「一緒に喜んでください」というであろう、とイエスさまは言われました。

病める人の場に身を置く、ということは簡単ではないかもしれませんが、
そこから、人が癒されていくことが始まっていきます。
共に泣く人が共に喜べる人になる。
一緒に喜べる人でありますようにと、主に願っていきたい。

また、イエスさまは、取税人マタイに
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「わたしに従いなさい。」(マタイ9:9)
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と言われました。

十字架を通り、死を打ち破り、永遠の命への道を、イエスさまは歩いてくださった。
その道を、私たちは、羊のようについていっているだけです。その道は険しいかもしれません。しかし、
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彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。(イザヤ42:2,3)
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イエスさまは、傷ついた葦や消えそうな灯心を守るために、今も、その命を注いでくださっている。
折れそうな葦に力が与えられ、心が燃やされる思いがします。

主が新しい道と新しい出会いを、用意しておられると信じて、
この私を用いて下さい、と、主に願っていきましょう。