憐れみの心を閉ざさない
先週のつづきで、「天の国のたとえ」の、3つ目。
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また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。(マタイ13:47~50)
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また、マタイ25章では、イエスさまは、この世の生き方が、世の終わりで問われることを語られた。弱り果てている人、困っている人に、どのように接していたのか。憐れみの心を閉ざしてはいなかったか・・それが、天の国を治める神さまの判断基準であった。
日々の生活において、主の御心を、実践しているだろうか。ふりかえってみる必要がある。
憐みの心を、閉ざしてしまうのは簡単にできてしまう。心には傷ついた過去が残っているのかもしれない。しかしながら、私たちは、神に多く赦されていることを忘れてはいけない。多額の負債を主人が帳消しにしてくれたしもべは、自分の家来にはわずかの負債をゆるさなかった。神から受けた、多くの憐みを意識するとき、他者への憐みの心は芽生え、育ってゆく。わたし自身が、神さまに、たくさん、赦されていることに、意識を向けていきたい。
今週も、み言葉に励まされながら、歩んでいこう。
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「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているのです。」(Ⅱコリント1:3~5)
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