憐れみの器として

Ⅰサムエル記18章。
ダビデは、サウル王に召し抱えられ、戦場にいけば、ダビデは勝利を収めた。
ペリシテ人を討って、ダビデが帰ってきた時、イスラエルのあらゆる町から、女性たちが出て来て、サウル王を迎え入れた。
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女たちは楽を奏し、歌い交わした。
「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」(Ⅰサムエル記18:7)
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サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。」この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。(Ⅰサムエル記18:8,9)
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栄えていくダビデと、没落していくサウル。
神さまからの選びが、明暗を分けた箇所と読み取れるかもしれない。

しかし、サウルがダビデに対して持った嫉妬心は、
程度には個人差こそあれ、
人がいまだに苦しめられる思いのひとつだ。

サウルは、このような嫉妬の思いが、くすぶっていき、
ダビデを殺そうと思うまでになった。

イエスさまも、十字架につけられたのは、ユダヤ人指導者たちが根に持った、妬みのためでした。

ねたみから解放されるには、どうしたらいいのだろう。

使徒パウロは、
わたしたちは、イエスさまにあって、憐れみをかけられていると、言いました。

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神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。(ローマ9:24)
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わたしは、妬む思いで苦しいし、
もう、ダメなんじゃなかろうかと思っていても、
イエスさまの十字架の愛によって、
救われている者のひとりなのです。

愛はねたまない(Ⅰコリント13:4)。
イエスさまに心を向け、
イエスさまの十字架に、その思いを手放す。
これが大事だ。

憐れみの器(ローマ9:24)のことを思い、

たこ焼き器からはみ出した生地のことが思い浮かんだ。

たこ焼きの柔らかい生地は、型に流し込むとき、

どうしてもはみ出てしまい、キレイに収まらない。

しかし、たこ焼きの作り手は、

竹串を片手に持って、

はみ出した生地を集め、

くるりと回転させる。

こうして、型からはみ出した生地も、

捨てられることなく、

たこ焼きの丸い型にキレイにおさまっていくのである。

わたしたち一人一人が、ひとつのたこ焼きだとするならば、

神さまは、私たちを、

個性あふれた、オリジナルのたこ焼きに

つくってくださった。

ひとつのたこ焼きが、となりのたこ焼きのことを

あれこれ文句いう事はできない。

「いい焼き色してるね!!」とか、

「紅ショウガがピリッと効いてるね!!」と、

喜び合えるような心でいたい。

注がれるソースを浴びて、

かつおぶしが躍っているような、

喜び合えるたこ焼きでいたい。

話がたこ焼きに流れてしまった。

イエスさまは、

99匹の羊を安全なところに待たせて、いなくなった1匹の羊を見つけ出される方であり、

放蕩し尽して実家に帰ってきた息子に、自ら駆け寄って、喜んで迎え入れてくださる方だ。

わたしたちは、

イエスさまの憐れみにより、

救いの道に導かれた。

わたしたちは、

祈りに応えていただきながら、

新しく生まれて、育まれていく存在だ。

そのことを受け取って、

希望をもって歩んでいこう。