平和をもたらす道

コロナ禍でのマスク着用の生活も、丸3年が過ぎた。
表情の分かるコミュニケーションのありがたみが分かった時でもあった。
「目は口ほどに物を言う」という言葉、これも実感した。

神さまは、アダムが主なる神から顔を避けた時(創世記3:8)、悲しかっただろうな。
アダムは、神さまに分からないように逃げたつもりかもしれない。
でも、逃げられている方は、逃げられているなって、分かってしまう。
「目をあげて、わたしの方を見て。」と、
神さまは、いつも、わたしたちに伝えておられる。

イエスさまは、
人の痛みや悲しみを、そのまま背負ってくださる、たった一人の方である。
そのままのわたしを、受け止めて、一緒に泣いてくださっているのだ。

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いよいよ十字架に架かられる時が来た。エルサレムを見たイエスさまは、都を見て涙された。
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エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」(ルカ19:41,42)
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後に、エルサレムの都が、ローマ帝国によって、崩壊の道を辿っていくことを、イエスさまは涙されたのだった。喜びにあふれて都に入った弟子たちも、エルサレムの人々同様、イエスさまの最期の目的はわからなかった。
そして、イエスさまの言われる「お前」とは、「わたし」のことでもある。

-イエスさまの言われる、「平和をもたらす道」とは?

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「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。」(イザヤ53:11)
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十字架に架かられたイエスさまは、苦しみの中を通られた。
しかし、そこを通られたからこそ、わたしたちに、豊かな実りが与えられたのだ。
愛し合い、赦し合う世界。平和をもたらす道に至るには、
イエスさまの受けられた傷がある。

-平和をもたらす道を行くためには?

今、苦しみがあるだろうか。
イエスさまは、わたしたちが救われることを願っておられる。
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彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53:5)
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イエスさまが十字架に架かられた苦しみにより、わたしたちは、救われた。
イエスさまは、救われたわたしたちを見て、
どんなに喜んでおられることだろう。

イエスさまは、ご自分が、苦しみにあってでも、
わたしたちが平和の道を行くことを、
何よりも願っておられる方である。

ある日、わたしは、自分の心が、カッスカスに渇いていたことを知った。
渇いた心は、神さまの愛で満たされる必要があった。
持ってない愛は、どうしたって、誰かに、与えることはできない。
渇いた心の思いは、神に正直につたえたらよい。
他者を愛する心は、
自分を愛することができてこそ、だ。

今週は受難週です。
イエスさまの負って下さった苦しみのことに心を向けて、
平和をもたらす道を行き、
愛し合い、赦し合う世界を、
1人1人が、感じることができますように。
そして、来週の、イースターを、お迎えしましょう。