帰るホームがある その①
野球の「ホームラン」とは、「家まで走って帰る」という意味だそうです。ホームに帰ってこられて、みんなで喜び合う。・・野球をやっている人も観ている人も、みんなが喜びあふれるシーンだと思います。
このように、ホームに帰って、喜び祝うお話が、聖書にもあります。ルカ15章11~32節の「放蕩息子」のお話です。
これは、徴税人や罪人が、みんな、イエスさまの話を聞きたくて、近寄った時に、ファリサイ派の人々や律法学者たちが「罪人たちと食事をしているイエスさま」に対して文句を言った時に、イエスさまが、彼らに向かってされた「たとえ話」でした。
—–野球実況場面①「ホームを出る放蕩息子」———-
「ピッチャー、第一球を投げました。これは見送ったか・・ん?バッターと審判が、何か話をしています。審判はお父さんで、バッターは息子さんです。お父さんには息子が2人いますが、このバッターは・・弟さんですね。一体どうしたのでしょうか。あっ、審判のお父さんが、バッターの息子に、財産の分け前を渡しました!そして、バッターはそのまま一塁に走塁、ではなく、そのまま、走って出て行きました!一体、どこに行こうというのでしょうか?」
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お父さんの遺産の分け前をもらって、何日も経たないうちに家を出た息子は、放蕩の限りを尽くして、お父さんの財産を、無駄遣いしてしまいました。その後、飢饉のために食べるものにも困り始め、豚の世話をして暮らすも、彼のために食べ物をくれる人はだれもいませんでした。
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食べ物をくれる人はだれもいなかった。
そこで、彼は我に返って言った。
『父のところでは・・・』(ルカ15:16,17)
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息子は、行き詰って、「我に返った」。
このときになって、初めて、
自分を待ってくれている「父」を見つけることができた。
ああ、あのとき、わたしは、気づかなかったんだなあ。
わたしは、お父さんの祝福を受けていて、
大きな愛の中にいたんだ。
自分が、天の父に、「待たれている」存在であることを、
心底、知らされる日が、わたしたちにもあります。
「我に返る」日です。
——-野球実況場面②「帰ってきた放蕩息子」———-
「今日も快晴、状態は良好です・・おや?誰でしょうか?誰かが、入ってきました。あ!!以前、財産の分け前をもらって、そのまま家を出た、あの息子さんです!ホームベースの、お父さんのところを目指して、ゆっくりと歩いています。審判のお父さんが、息子さんに気づきました!お父さんが今、走り寄って、息子さんを抱きしめました!なんというお父さんのすばらしい愛でしょうか・・!」
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息子は悔い改めて、自分の家に帰ってきた。
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息子は言った。
「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」
しかし、父親は僕たちに言った。
「急いで、いちばん良い衣を持ってきて、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。・・この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(ルカ15:21~24)
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わたしは、思い悩み、ようやく目が覚めて、
立ち返ることが出来たと思っていました。
そうではなく、父なる神さまが、
待ち続け、探し求めて、見つけてくださいました。
ホームに帰ってきたとき、
父なる神が待っておられ、受け止めてくださった。
ここに、ほんとうの安心があることを知らされました。
明日に続きます。