喜びのあまり
「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」(詩51:12)
イエスさまは、群衆や弟子たちに、たびたび、説教をされました。主なテーマは、天の国(神の国)のことでした。天の国って、どんな国なんだろう?イエスさまは、2つのたとえ話で、天の国を語られた。
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①「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
②また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイ13:44~46)
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【天の国のたとえ①】
偶然見つけた畑のお宝。それは、今まで握りしめていた価値観を、すべて投げ売ってでも手に入れたいものであった。それが、天の国の豊かさなのだ。それは埋まっだけで、この世の中に、存在しているのである。見つけた時、どんなに喜びがあふれてくるだろう。
【天の国のたとえ②】
イエスさまは、天の国の統治について語られたのであった。当時ローマの属国であったユダヤの民が期待していた「天の国」は、民族の独立と統治を実現するメシアなる人物が現れるのを期待していた。が、イエスさまは、天の国を統治される天の父(商人)は、代価を払って(イエス)でも、私たちひとりひとり(1つの真珠)を買い取りたいと思っている方なのだ、と教えておられる。
イエスとの出会いは、日常のあらゆる場面において、隠れていることに、たびたび気づかされる。見つかると、喜びが湧き上がってくる。その喜びのふるさとは、自分がよくわかっていると思う。喜びのあまり、それに突き動かされて、私たちは、旅をしている。
過去の苦しみや傷によって、行き先を見失うこともあるだろう。そういう時は、わたしたちが、代価を払って買い取られた真珠の一粒であることを思い出したい。
イエスさまは、わけなくいやしてくださるたったひとりの方である。祈り続けていこう。