信仰の父と呼ばれる所以
旧約聖書に出てくるアブラハム(アブラム)は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の、3つの宗教で信仰の父と呼ばれている。
父テラが死んだ後、アブラムは、神から、召命を受けた。
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「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。(創世記12:1,2)
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その後、アブラムは一緒に旅をしていた甥っ子ロトと別れる際、ロトの行きたい方に行きなさいと言った。住む土地を決めるための主導権を譲ったのだ。
2人が別れてから、ロト家族は、ソドムという土地に入るが、他国の侵略争いに巻き込まれ、財産もろとも連れ去られた。それを聞いたアブラムは、友人達と共にロトたちを助けた。そして彼は、ソドム王に「私は何もいらないから、一緒に戦った人達には分け前を与えてほしい」と頼んだ。
また、アブラムと妻には子どもがいなかった。主の約束「『あなたの子孫にこの土地を与える。』(創12:7)」は、成就される気配がなく、歳を取るばかり。とうとうアブラムは神に疑問を投げかけた。神は答えた。
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「その者(僕エリエゼル)が、あなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」・・・「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:4,5)
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アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15:6)
このように、どんな時も、
アブラハムは、主に望みを抱いていた。
アブラムは、主を信じて、彼の義と認められた。
今のわたしたちにも、あてはまることだ。
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わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。(ローマ4:24)
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いつも主に、望みを置いていこう。
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先日、必要があって、過去の子育て記録を整理していた。
保育園と小学校で、毎日、先生とのやり取りを記したノートが数冊出てきた。
読んでみると、あまりの自分の余裕の無さに驚く。
手記には、不安が、はっきりと現れていた。
いろいろ、無理をしていたんだな、と思った。
ノートを書いていた時の私に、そっと言ってあげたい。
よく、これだけのことをやってきたよね、
自分が頑張らねば、とばかり思っていたのだね。
でも、もう少ししたら、
あなたは、良い知らせを知ることになる。
この世のものとは違う平安を、知ることになる。
その方を、信じて、これからも生きていくのだよ。
子育てだけや将来の事にとどまらない、
あなたをお創りになった方の愛を、
心の深いところで知ることになるよ。
信じてからも、いろいろあるけれど、
それでも、信じて、生きるのだよ。