主の愛に押し出され

重い皮膚病のシモンの家で、一人の女が、イエスの頭に高価な香油を注ぐ行為をした。これは、「イエスこそ、メシヤ(油注がれた者)である」ことを表した。

高価な油を惜しみなく使う女に対して、弟子たちは、「なぜ、こんな無駄遣いをするのか・・」と憤慨したが、
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「この人は私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれた。」(マタイ26:12)
「・・世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マタイ26:13)
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と、イエスは言われた。

「この福音」とは、イエスさまの死のこと。香油をかぶったのは、十字架に架かられる2日ほど前の切羽詰まった状況である。そして、3年も一緒にいて、メシヤの目的をわからずに、純粋な女の心意気にも水を差す弟子たち。

このような弟子たちの心になってしまうこと、あるなあと、思った。自分のものさしで、周りを見ているのだ。相手の目のおがくずに気がいくのに、自分の目の中の大きな丸太には気づかない。そう、最近のこと・・。

先日、学校の心理士の先生と話す機会があり、そこでなんとなく、「不安について」の話になった。

そこで、学んだ大きなことは、

「不安の大きさは、人によって、全然違う」

ということだった。

話を聴いて、わたしは、”自分のイメージする不安で、他の人の感じる不安を見ていた”ことに、気づいた。

長いこと、大きな大きな梁が、目の前にあったのだ・・。

弟子たち:「香油、もったいないじゃないか!!(怒)」

女:「え?全然、もったいなくないし」

・・シモンの家で、そんな会話が、なされていたのだろうか。

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新しい年度に入った。

新しい環境に身を置く状況も、たくさんあるかと思う。

女のように、純粋に、

イエスさまの愛に押し出されて、行動していきたいな、と思う。