主が招いておられる人

弟子たち3人とイエスさまが、山を下りられたあとの出来事だった。

山に登っていない弟子たちは、群衆に囲まれていた。

何があったのだろう。

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群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。…。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」(マルコ9:17、18)
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霊につかれて苦しんている少年を、弟子たちは癒すことができずにいたのだ。

イエスは、奇跡やしるしを求めたがる人々に、かなしみを表された。
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イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子を私のところに連れてきなさい。」(マルコ9:19)
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イエスさまは、その子と、その子の父親に向かい合う。
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父親は言った。・・「…おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」。その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(マルコ9:21~24)
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父親は、自分のことを、「信仰のないわたし」と告白した。

正直な気持ちのまま、主イエスに向かったのだ。

イエスさまは、

この父親のへりくだった態度をみて、

「それで、ええねん」

と応答された気がする。

かっこつけなくても、ええねん。

ありのままの情けない姿で、ええねん。

わたしのところにおいで。

そのように、いつも、

イエスさまは、わたしを

招いてくださっているのだ。

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2~3年前、

子どもの発達についての勉強会に行ったことがある。

テーマは「発達検査を実施する意味について」であった。

あらゆる年齢の子どもを持つ、保護者が集まっていた。

講演の終わりの方だったと思う。

その時、講演者の先生が、

ご自身のお母さまの口癖だったセリフを紹介した。

プロジェクタに、パッと映ったその言葉は、

「見て分からんものは、聞いても分からん」

という、お母さんの言葉だった。

一瞬、荒いことばにきこえるが、

身に覚えがあることばだ、と思った。

発達検査のテーマからは、少しずらすような話だったが、

講演者の先生が、一番、

保護者に伝えたかったことではないかと思った。

「見て分からんもの」の「もの」は、

子どもだろうか、保護者だろうか。

どちらとも取れるように聞こえたが、

その時、自分のことのように思った。

子どもの発達のことで、思い悩みすぎている親に、

今一度、子どものことを、

違った視点でみつめてみてはどうか、と。

分かるか、分からないくらいの、

やさしい問いかけでした。

自分の考えだけを、みつめていたら、

誰が何を言っても、行動しても、

見えてないし、聞こえていない。

そんな行動しか、できていなかったな、と、

思わされた。

過去の苦みが、

今のわたしに重くのしかかる時が

あるかと思う。

そんな時、

イエスさまに憐みを乞うた、

あの少年の父親のように、

正直に、イエスさまに申し上げたらよい。

そこに、立ち返っていこうと思う。

【今週のみ言葉】

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)