ダビデの一言が

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そのとき、ダビデは言った。「エブス人を討とうとする者は皆、水くみのトンネルを通って町に入り、ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。」(Ⅱサムエル5:8)
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これは、ダビデ王がヘブロンからエルサレムに拠点を移すときに、エルサレムの先住民であったエブス人から受けた「からかい」を皮肉った、報復の一言であった。

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・・このために、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった。(8)
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この、たった一言の皮肉のために、「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」という慣習は、ダビデの時代からイエスさまの時代まで、1000年以上続いていたようだ。

しかし、イエスさまは、どうされたのか。
神殿に入れない、目や足の不自由な人たちと、どのように向かい合われたのか。
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(神殿の)境内では、目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。(マタイ21:14)
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ダビデの皮肉から始まった悪しき慣習を、
イエスさまは、行動によって、書き換えられたのでした。

よるべなく祈る、弱い人々の声を、

イエスさまは聴かれ、応えてくださった。

わたしたち、ひとりひとりに対しても、

同じように、イエスさまは、愛してくださっている。

わたしたちは、どんな試練の中にあっても、

闇の中に、イエスさまという、まことの光を見出すことができる。

希望をもって、歩みたい。

イエスさまは、群衆に言われた。
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「・・光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)
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イエスさまは、ひとりひとりに、

光の子として歩むことを望まれている。

たとえば、

グラス(ビーカー)を、台に置いたとする。

グラスは、光を受けて、影を作る。

わたしたちの内にも、影(闇)がある。

でも影(闇)の中からでも、

希望の光を見出すことはできる。

影をおそれてはいけない、

足の悪い人や目の見えない人が、

イエスさまに出会い、

いやされたように、

わたしたちも、

イエスさまの光が内側からあふれ出る経験をするだろう。

グラスの中に、ランプの光を灯してみる。

先ほどの影は消えて、グラスは光を放ち、周りを照らす。

自分の影(闇)の部分に、蓋をしなくてもいい。

日々、イエスさまの愛の光を受けていこう。

光の子として、歩んでいこう。