キリストの思いを抱いて

パウロ2回目の伝道旅行、アテネの次に訪れたのはコリントという町で。ギリシャの政治と商業の中心地であったコリントには数々の神殿があり、不品行がまかり通っていた。

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ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。(使徒18:2)
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この夫婦は、天幕づくりの仕事をしていた。パウロもまた同業者であったため、2人の家に住み込みで働き、安息日ごとにユダヤ人の会堂に集う人々に対して論じるという生活をした。アキラとプリスキラ夫妻のように、長きにわたって、行動を共にできる人達に出会えたことは、パウロにとっても、大きな励ましであったと思う。

彼は、ユダヤ人に対して「メシアはイエスである」と力強く証ししたが、ユダヤ人たちは、反抗し、口汚くののしった。彼らは、パウロの伝えているイエスのことがメシアだと、受け入れられなかったのだ。

― あなたは、どんな時、励まされたいですか?

そうですね・・心が一人ぼっちの時、励ましを受けたいです。
でも、「自分がひとりぼっちだ」と思う感情は、自分だけがその時に感じている感情なので、他の人には分かりません。だから、孤独を感じている自分の前を、通り過ぎていくように感じることは、よくあります。そんな時・・誰かと話す機会が与えられることは、うれしいことです。あと、励ましって、自分の想像とはるかに違った形で訪れることが多いです。あまりに自然に訪れるから、見落としてしまうくらい。風が吹くのに似ている気がします。

パウロは、ある夜、幻の中で、主にこのように言われた。
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「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」(使徒18:9,10)
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パウロは夢の中で、神さまからの励ましを受けた。
孤独を感じていることを、誰よりもご存知であった神さまは、最善の方法で、励ましてくださる方だと思った。

パウロは1年6か月の間、コリントの町にとどまって、人々に神の言葉を教えた。
主を信じる人々もたくさん現れた。誕生したコリント教会は、その後、多くの問題を抱える教会になってしまったが、パウロは、高ぶりの強かったコリント教会の人々に対して、手紙の中で、このように書いている。
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わたしたちは、…侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓(かす)とされています。(Ⅰコリント4:10~13)
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― 高ぶることはありますか?どんな時ですか?

あります、家事の段取りがうまく行った時、じゃんけんなどの勝負事に勝った時、駐車場に、一回で、美しく停車することが出来た時などは、すぐに高ぶります。子どもやな~と思います。

パウロは、自分が滓(かす)扱いされていることに、甘んじている。すごいことだ。
かつて、罪の全くないイエスさまが、人々から、ひどい扱いを受けられ、十字架にかかってくださった。
この時の、イエスさまの態度を思うと、
わたしたちも、苦い思いを受けた時、
パウロのように、甘んじて受けることできるだろうか?

ある小説家が、読者の質問に対してこのように答えていた。
「人生で一番深く心の傷として残るのは、多くの場合、自分が誰かに傷つけられたことではなく、自分が誰かを傷つけたことです。誰かに傷つけられたときには、「傷つけられたのが自分でよかったんだ」と思うといいです。」
甘んじる、ということは、このように受け止めることかなと思った。
そして、叩いた手の方が、ずっと痛いことも、ある。

誰でも、大切に扱ってほしいし、雑に扱われたら傷つく。
悩んでいたら、励ましてほしいと思う。
イエスさまも、最後の夜のオリーブ山で祈り、天使の励ましを受けた。
今日のわたしたちにも、いつも、主からの励ましがあり、癒しがある。

もし、傷ついたら、パウロみたいに、甘んじて受ける方を選びたい。
主イエスの癒しを受け取ることを選びたい。

もし、誰かを傷つけたことで、心の傷を負っていたとしても、
主イエスの癒しを受け取ることを選びたい。

イエスさまは、私たちの慰め主。
いつもそばに居て、
傷ついた心をいやしてくださる方。
ひとりの人を、変えることの出来る方。

誰かを大切に思うことができるように
そして
自分のことも、大切に扱うことができるように
変えることのできる方。

イエスさまに信頼していこう。

【今週のみ言葉】
「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」
しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。(1コリント2:16)