イエスさまの先駆け ヨハネ2
昨日の続き。
それから、ボス達とのかかわりは、全く無くなった。そもそも、元から関係性が無かったので、あの事件は、ただの尋問といってよい。ボス側からしたら、「”私が2人乗りで下校していて、声をかけたのに、無視をされた”という疑問を、はっきりさせたかった」から行動(お呼び出し)したのだろう。怖かったけれど、言ってることは筋が通っていて、潔い感じだった。それを「早く帰りたいから」の理由で、適当に答えてしまった自分の方が、よっぽど悪い人間ではないのかと、今でも思うのだ。
洗礼者ヨハネは、イエスさまのいとこであり、ヨルダン川で、たくさんの人々、そしてイエスさまに洗礼をさずけた預言者でした。
洗礼者ヨハネは、当時ガリラヤの領主であったヘロデ王の不義を非難した。不義の原因となった妻のへロディアは、夫ヘロデを追い詰めて、ヨハネを処刑してしまった。
洗礼者ヨハネは、彼の弟子たちに、言っていた。
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あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。(ヨハネ3:30)
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救い主は自分ではなく、イエスさまがだ、と告白していたのである。
彼のような、潔さは大切だ。
洗礼者ヨハネは、自分の役割を全うした。
彼のように、いつも主の栄光を見ることを心にとめたい。
救い主イエスが現れて、多くの人々が集まった。
イエスさまの優しさと憐みにふれ、癒され、多くの人が救い主を信じた。
イエスさまは、あらゆる病の人、罪びとたちに、ことばをかけられたが、
そんなイエスさまが沈黙し続けた男がいた。
洗礼者ヨハネを殺した、残忍なガリラヤの領主ヘロデだ。
十字架に架かられる日、ピラト総督の命令により、
ヘロデの前にイエスが引き渡されたのだ。
ヘロデはイエスに会いたいと思っていた。彼の奇跡のしるしを見たいと思っていた。
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彼は、イエスを尋問したが、イエスは、何もお答えにならなかった。(ルカ23:9)
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ヘロデは、その救い主のことばを、何も聞くことは出来なかった。
イエスさまは沈黙を守った。
ヘロデは、イエスに罵声の言葉を浴びせ、ピラト総督のも元へと突き返す。
「沈黙」により、自分の至らなさが、分かることがある。
イエスさまの沈黙から、ヘロデは、何かを受け取らなかったのだろうか。
我がことのように考えてみる。
もしかしたら、自分も、ヘロデのように、
あらゆる悲しみ(他者の悲しみ・自分の悲しみ)に対して、
無感覚になってはいないだろうか。
自分の悲しみに鈍感であると、
他者の悲しみにも鈍感になってしまう。
ヘロデの優柔不断で、小心な性格ゆえに、
光をまともに見ることすらできなくなるような事は、
今の世の中にだってたくさんある。
しかし、イエスさまとつながっているのであれば、
日々のこと、イエスさまに期待していい。
心の内には、聖霊の宮がある。
行動は、その心があって、なされていく。
主に従うということは、そういうことだと、改めて思う。
聖霊さまの助けを求めて、主の栄光を見ていきたい。
神さまは、日々の出来事を通して、私たちを、励ましてくださっている。
わたしたちには、出会いがある。愛のバトンにはいろんな形があると気づかされる。
あたたかい言葉をかけてくれる人、何も言わずにそばにいてくれる人、明るい話題を提供してくれる人。
声なく、心ひそかに祈りを捧げてくれている人。洗礼者ヨハネのように、とても言いにくいことをずばり言ってくれる人もいるだろう。
互いに愛し合うこと、励まし合うこと、
お互いを自分より優れた人と思うことを、忘れずにいよう。
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何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れたものと考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。(ピリピ2:3,4)
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