イエス、涙を流す
ネガティブな感情というのは捨てていきたいな、と思う。
心が暗くなって堂々巡りになってしまうような、
内にこもった感情は、捨てたい。
「憤り」という感情。
ネガティブな感じがして、捨てたいと思うし、
憤りの感情を認めたくないと思う気持ちもあるのだが、
本来あるべき状態からずれていることが起こった時、
やり場のない、「憤り」が起きる。
イエスさまが、人々に憤られた場面がいくつかある。
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イエスは、べタニヤ村に住むマルタとマリヤ家族と親しくしていた。彼女たちは弟ラザロが病気だということを、別の場所にとどまっていたイエスの元までやって来て、知らせた。イエスはマルタとマリヤに、
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「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(ヨハネ11:4)
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と言った。ラザロ危篤の知らせを受けたイエスは、なお、2日間同じところに留まり続けた。ラザロは死んだ。
イエスがラザロのところに行った時、ラザロは墓に葬られてすでに4日も経過していた。
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マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」(ヨハネ11:32~34)
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イエスの憤りは、人々の不信仰に対するものであった。
この箇所を読むと、思い出すことがある。
ああ、あの人は、この時のイエスさまと同じ憤りを、
わたしに、してくれていたのだな、と。
ただただ、「主イエスを信じる」というところに、目を向けることが必要だった。
マルタとマリヤ、一緒にいたユダヤの人々、そしてわたしも。
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イエスは涙を流された。(ヨハネ11:35)
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死んだラザロのこと、悲しみに沈む人々のことを思って、イエスさまは、涙を流される。
ひとりひとりの悲しみに、涙をもって寄り添われる方である。
私たちを、救い、導く方のわざには、
深い共感の涙が、いつだって込められているのだ。
彼は死と闘われるために、ご自分のすべてをかけて、
十字架への道を歩まれた。
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「ラザロ、出てきなさい。」(ヨハネ11:43)
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と、わたしたちも、十字架の主に呼び出されて、
よみがえって、墓から出ていく。
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話を聴いてもらって、
一緒に共感してもらえることって、
なんと勇気づけられることだろう。
安心なところで、心を開くことは、
どんな人にも必要だ。
そして、生きていくうえで、
問題の解決が、すぐには出来なくても、
今、自分なりにできることを見つけて、
それをやっていくことはできると思う。
神さまは、私たちに、イエスさまをプレゼントしてくださった。
キリストの香りが、だれかのところに届きますようにと、
今週も歩み出していこう。