アヒメレクのもとで

先日、自宅の洗面所の水が流れなくなり、ちょっとした騒ぎになった。

しかし、水は、急に流れなくなったわけではなかった。

私を含め、家族は、洗面所を使うたびに、排水口の流れが悪いことに気づいていた。

排水口の掃除という、イレギュラーで、名も無き家事をするという面倒くささが勝ってしまい、

掃除を引き延ばしてしまったのも、詰まりの原因であった。

気づいたときに対処していれば、排水口の詰まりは、じゅうぶんに防げたのである。

パイプ掃除をすると、排水口からは、飼い猫の毛の塊が出てきた。

これが詰まりの原因であった。

そういえば、ネコのブラッシングを少しさぼっていた。これも無関係ではない。

さっきと似たような見過ごしが起こっていた。先延ばしの癖が、ここにもあった。

小さなほころびを放置して、事が大きくなってしまったことに、気づかされました。

Ⅰサムエル記21章では、サウルの元を逃げたあと、ダビデは祭司アヒメレクの元に行って、パンと護身用の武器を求めた。アヒメレクは、ダビデの事情を何も知らずに、供え物のパンとゴリアテの剣を渡したのだが、この一連の出来事は、同じくアヒメレクの所に留まっていたサウルのしもべ・エドム人のドエグによって、サウル王に伝えられた。サウルは、アヒメレクと祭司職にある彼の父の家の者を全て呼び出し、祭司85名を殺してその町も襲った。たった一人、アヒメレクの息子のアビアタルだけが生き残り、彼はダビデの元にとどまった。

Ⅰサムエル記21章を引用された、イエスさまの言葉がある。

ある安息日に、イエスさまが麦畑を通って行かれたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、それを手もみして食べました。
ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言ったとき、イエスはお答えになりました。
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「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」(ルカ6:3,4)
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イエスさまは、祭司アヒメレクがダビデに供え物のパンを与えた時のように、人が、生命の危機に迫った時の行為は、律法よりも優先されることがあることを、ファリサイ派の人々に教えられたのでした。

生活上で、必要に迫られるような時は、いつでもそれを優先しても良い、このイエスさまの心をしっかり受け取りたい。

排水口が詰まったことと、イエスさまの言葉が重なる。

イエスさまの視点がありがたいと思うことは、

イエスさまの言葉は、あらゆる生活の場において浸透し、

わたしたちひとりひとりを導いておられる、ということだ。

ちょっとした違和感、それもまた、聖霊さまが気づかせてくださる。

排水口のパイプの詰まりも相まってか、

サウルがそうであったように、

疑心暗鬼になったり、孤立無援だと思う時、

自分の心の中にも、何かが詰まっている状態なのかもしれないと思った。

神さまは、わたしたちの、心の中の、小さな目詰まり、小さな異常を、すべてご存知の方だ。

小さな目詰まりにも、大きくなりすぎた目詰まりにも即対応、

わたしたちを回復に導いてくださる方である。

イエスさまのことばは、

あらゆる出来事を通して、自分の思いもよらなかった視点に、気づかせてくださるところが、ありがたいと思う。

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すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。(マタイ11:28)
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と、イエスさまは言われる。

24時間365日、イエスさまは、祈りを聴いておられる。

重荷、苦い思い、心の目詰まりは、手放していこう。

心につっかえるものに、気づいたら、

ほったらかしにしないで、対処していこう。

イエスさまは、どこまでも、私たちの必要に応えたいと願っておられる。

人は、一瞬たりとも同じ存在ではない、

一歩ずつ、踏み出していきたいと思う。

【今週のみ言葉】
「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。(マルコ2:27,28)」