わたしが喜ぶのは愛
サムエル記の時代、
イスラエル国の王サウルは、祭司サムエルによって最初の王とされましたが、サウルにも、いろいろな弱さがありました。神を恐れずに、人の顔色を恐れるところがありました。
アマレク人との戦い(Ⅰサムエル記15章)では、主の命令に背き、滅ぼしつくすべきものを滅ぼさず、さらには戦利品の良いものを、お取り置きしてしまいました。残した最良の羊や牛は、主のための捧げもののためだ、というのがサウルの言い分でした。
しかし、サムエルはサウルに言いました。
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「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)
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主は、サウルを王位から退けられることになりました。
私たちも、何かをすることで、
自分の正しさを主張することがある。
イエスさまは、目に見える捧げものを重要視していたファリサイ派の人達に、このように言われました。
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「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」(マタイ9:13)
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イエスさまは、「憐み」を望まれる。
憐れみを学ぶとは、どういうことだろうか。
これは、
自分以外の人の心を、大切に思うこと、
誰かの痛みを、自分の痛みのように思うこと、
だと思う。
その人からあらわれる、「目に見えないもの」を見ていく。これは大事だ。
イエスさまはいつも、
愛と憐みをもって、
私たちを、招いてくださっている。
すべてを包み込んで、
新しく造り変えてくださるために、
イエスさまは来られ、
招いてくださっている。
イエスさまが望まれる、
愛と憐れみを
日々、学んでいきたいと思う。
自分の心をかえりみて、
神のみこころに歩めますように。
それを心に留めながら、
今週も、歩んでいきましょう。
【今週のみ言葉】
「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす捧げ物ではない。」(ホセア6:6)