ひとりであった時に
孤独のイメージとは何だろう?
ひとりで過ごしていても、心が安らぐ時もあるし、
大勢の輪の中に入っていたとしても、
自分はひとりぼっち(Loneliness)だ、と、感じることもある。
実は、18世紀まで「孤独」という言葉には、否定的な意味がありませんでした。
人々が一人でいることは、悪いことではなかったのです。
「一人でいること/孤独(ソリテュード・Solitude)」という言葉の意味は、
自分自身と向き合うことができる、穏やかな状態でした。
ひとりでいるときにも、良い経験はある。
じっくりと創作する時間を持つことができる。
ガーデニング、ダンス、作詞作曲、服づくり、野菜づくり、動画編集、DIYなどなど・・。
意識を集中して、ひとつのものを作り上げていく作業は、心に良い。
こないだ、漫才を見ていたら、ネタの中のセリフで、
「心から湧き上がってきた動きは、絶対に止めちゃいけないんだ!!」
という言葉を叫んでいた。
ホンマにそう思う。
その動きには、本人なりの理由があるのだから。
しかし、
生きていると、忍耐を要することが、
色々と起こってくる。
困難な状況も、
Lonelinessも経験する。
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あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラとを思いみよ。わたしは彼をただひとりであったときに召し、彼を祝福して、その子孫を増し加えた。(イザヤ52:2)
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イザヤの時代(BC700年ごろ)、信仰者であるユダヤ人達は、数が少なかった。
孤独を感じていたユダヤの人々に、イザヤが、アブラハムとサラの事を思い起こすように、告げた言葉でした。
アブラハムが家族と旅をしていたときのこと。
途中、父のテラが死んでしまった。
大切な意味のある繋がりを失い、孤独になりました。
その時、神さまが、アブラハムを召し出して言われました。
「私はあなたを大いなる国民とし、祝福し、あなたの名を大いなるものとする・・(創世記12:2)」
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イエスさまの歩まれた道に目を向けたい。
イエスさまは、群衆の中で、
たった一人で十字架に架かられた。
罪のない、その方は、
自ら一人になることを、大切にされました。
群衆の中でも、ひとりでいるときも、
孤独なわたしと共にいてくださる方です。
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…イエスは大声で叫ばれた。…「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
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この言葉は、苦しみの中で神を呼び求める、詩篇22篇にある信仰者の祈りでもありました。
父なる神さまは、イエスさまの苦しみを通して、
すべての人間の苦しみ、惨めさ、孤独、を担ってくださいました。
孤独(Loneliness)を通ることは、
孤独(Solitude)を知るための通り道なのかもしれない。
その道には、主の愛がある。
いつもイエスさまが一緒に歩いてくれているのだ。
そのことを、もう一度、受けとめたい。
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子どもの頃、自分が誰の輪の中にも入らずにひとりでいることに
親はよく先生に相談をしに行っていたらしい。
わたしは、その時の親に対して、
「心配ないよ。」と言えればよかったのだけれど、
当事者の幼稚園児が言ったところで、響くことはなかっただろうし、
そもそも、相談していたことは、後から知ったことなので、言いようもない。
でも、今から言えることもある。
たとえ、あの時心配していた親に言えなかったとしても、
自分の心に言えることもある。
「イエスさまがおられるから、心配ないのだ」と。
主の愛に導かれながら、前に進んでいきましょう。