なぜ義人が苦しむのか
ヨブ記は、史実ではなく、文学作品であると一般的には受け止められている。
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ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。(ヨブ1:1)
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わたしは、ヨブという人に、
なんとなく、共感しづらい気持ちを持っていた。
ヨブ記が文学作品だから、というわけではない。
神さまの前に、非の打ちどころのない、正しい道を歩んでいたヨブは、
自分とは全く違う、遠くの方を歩いているような人のようなイメージだった。
自分は、失敗も間違いも、たくさんしてきたし、
気をつけていても、やっぱり、これからも、間違うから。
ヨブという人は、すぐ後を追いかけているのかと思っていても、
全然違うところを歩いている人のような、
まぶしい人に見えた。
しかし、これでは、ヨブの一部分だけを見ているだけだ。
ヨブの元々持って生まれた性質や、
恵まれた環境だけを見てしまうと、
ますます自分と共通する部分を見失ってしまう。
人と出会う時、共通点がないからと思い込んで、
関係づくりをやめる、みたいなことではもったいない。
患難の中における、ヨブの心持ちには、身に覚えがある。
「なぜ」という言葉で、ヨブは神さまに訴える。
困難がいくつも続き、まるで永遠に続くかのように、変わらない状況に、
ヨブは、「なぜ」という言葉で神に反抗した。
困難の中の、「なぜ」という反抗の繰り返し、
私たちにも、ある。
神さまは、
一体「誰が」、この世界を定め、支えて、維持しているのかを、ヨブに何度も仰せになった。
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主はさらに、ヨブに答えて仰せられた。
非難する者が全能者と争おうとするのか。
神を責める者はそれを言い立ててみよ。(ヨブ40:1,2)
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ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。 …わたしには理解できず、わたしの知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました。…わたしは…悔い改めます。(ヨブ42:1~6)
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主のされることに、
「なぜ」と思うような試練がそれぞれにあるかと思う、
理解できない日が続いたとしても、
それでも、主権は主にあることを受け止めてるとことから、
また始めたい。
与えられた状況の中で、
良いことも、そうでないことも、受けとめて、
ずっとあとになってもいいから、
「あのことが起こっていて、よかったんだ」
と、思えたらいいな。
【今週のみ言葉】
神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる。(ヨブ34:21)