この人たちにも同様に
野球、サッカー、音楽フェス、ピアノの発表会、など・・
プレイヤーが活躍する姿の裏には、監督、コーチ、保護者、マネージャー、音響設備の方、保護者、ファンの人々・・・陰でいろいろな支援者が支えてくださっている。
あの時もあの時もあの時も、支えてくれた人達が、周りに、たくさんいた。
あの時のわたしは、そういうことをどれだけ分かっていたのだろう。
そして、何よりも、神さまが、ずっと、わたしが神さまを知らなかったときも、
すべてを知っておられて、今も変わらず、変わらぬ愛で、支えてくださっている。
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Ⅰサムエル記27章、
ダビデは、このままだと自分はいつかサウル王の手にかかるだろうと思い、従者600人と共にペリシテの地ガトに逃げた。そこでガトの王アキシュにツィクラグという地を与えてもらい、ダビデは1年以上仕えて、アキシュの信頼を得た。
Ⅰサムエル記29章、
ペリシテ軍とイスラエルの軍と戦いの時に、ダビデはアキシュと共に進軍した。しかしペリシテ人の領主たちがダビデ軍と一緒に戦うことを拒否。ダビデ達は、ペリシテ軍から離脱することになり、同胞イスラエル人を討つことを回避する形となった。
Ⅰサムエル記30章、
ダビデは拠点のツィクラグに戻ると、そこはすでにアマレク人によって襲撃され、家族は連れ去られていた。悲しみに暮れたダビデは立ち返り、600人の従者と共にアマレク人を追いかける。
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ベソル川まで来ると、ある者たちはそこに残った。
ダビデと四百人の者は追跡を続けたが、二百人は疲れすぎてベソル川を渡れず、そこにとどまったのである。(Ⅰサムエル記30:9,10)
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ダビデと400人の従者は、アマレク人との戦いに勝利した。戦利品を携えてベソル川の200人の元に戻ってきたが、400人の従者の内で、たちの悪いならず者たちは口々に言った。「あの者たちは一緒に行かなかったのだから、我々が取り戻した戦利品を与える必要はない・・(22)」しかし、ダビデは言った。
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兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。我々を守ってくださったのは主であり、あの襲って来た一団を我々の手に渡されたのは主なのだ。誰がそのようなことに同意するだろうか。戦いに出て行った者の取り分も、荷物のそばにとどまっていた者の取り分も、同じでなければならない。同じように分け合わなければならない。(Ⅰサムエル記30:23,24)
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ついていくことが出来なかった200人の人達は、心苦しかったと思う。
だから、このダビデの言葉に、どれだけ救われたことだろう。
わたしたちも、ダビデについていけずに残った200人のような思いになる時がある。
周りにうまくついていけない時、期待に応えられなかった時、疎外感を覚える時・・などなど。
焦りか、プレッシャーか、いきすぎた承認欲求がそうさせているのかも?苦しい状態だ。
イエスさまがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時に、神さまは、イエスさまに言われました。
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「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」(マタイ3:17)
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弱い自分に落ち込むことがあるかもしれない。
けれど、
イエスさまにおっしゃったように、
神さまは、わたしたちのことも
「わたしの愛する子、御心に適う者」と、
言ってくださっている。
辛い時、心折れている時に、
寄り添ってくれる存在に、救われていることを、
忘れずにいたい。
悲しい思いをしていたら、
傍で寄り添っていてくれる人の存在が、
ありがたく、温かいです。
イエスさまの姿だと思います。
愛を返していく、
そのような人に、なりたい、と思う。
また、
神さまは、私たちを愛しておられる、と思う時、
弱さの中に、神さまの強い支えを感じることができる。
弱さを、誇っていい。
私たちは、神さまのものだから。
神さまの約束に踏み留まり、
それぞれに与えられた場所で、
その役割を果たしていきたいと思います。
【今週のみ言葉】
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「わたしたちは、贖われて神のものとなり、
神の栄光をたたえることになるのです。」(エペソ1:14)
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