あきらめない園丁
ルカ13章。イエスさまのところに、何人かの人が来て、とある出来事について質問をした。
ひとつは、ピラトがローマに反抗するガリラヤ人を殺して、その血を、神殿の捧げものに混ぜたこと。
もうひとつは、ローマ帝国に協力して水道工事をしていた人々が、シロアムの塔の崩落に巻き込まれて18人が死んだこと。
「この、2つの出来事で命を失った人びとは、ほかのどの人々よりも罪深い人だったのですよね?」と、人々はイエスに告げたが、イエスはどちらの質問にも、このように答えられた。
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「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ13:3)(ルカ13:5)
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人は・・困難に直面した時、また、辛い光景を見た時、なぜこのようなことになったのか、だれのせいでこうなったのか、と、
まるで、ひとつの結論がそこに出ているかのように考えるときがある。人生の結論がそこに出ているように考えるところがある。
イエスのところに来たユダヤの人々は、この悲惨な2つの出来事について「自分には関係のないことだ」という見方をしていた・・それが問題であった。
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そしてイエスは、次のたとえ話を話された。
「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、こやしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(ルカ13:6~9)
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ユダヤ人たちは、いちじくの木が、自分たちの事であることが分かった。
では、あきらめない園丁とは?・・それは、イエスさまのことで、いつまでも実をつけないいちじくのために、父なる神に、お願いしてくださっている。
自分がちっとも実のつかないいちじくだとしたら・・そんなわたしのために、
イエスさまは、あきらめずに、実を結ぶことを、待っていてくださっている方なのである。
イエスさまの憐みは、確実に、
いちじくの痛んだ根っこに届くのだ。
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神の憐れみが、あなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。(ローマ2:4)
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神さまからの慈しみ、寛容さ、忍耐の中に、わたしたちは生かされている。
悔い改めのある人生の中に、命の道がある。
これからも、その道を歩いていこう。